山田長政はシャム国王に暗殺されたのか? “利益を得たのは誰か”に注目し捜査する
あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察 第5回
■シャムに渡り、貿易で成功した長政
日本と海外との貿易が盛んになるに従い、長政はシャムで一旗揚げようとしたのであろう。駿府は、いわば海外との貿易の中心地であったから、長政のもとにも成功した商人の情報が入ってきていたにちがいない。長政は、日本での生活を捨て、シャムに渡ったのである。慶長17年(1612)のこととみられている。現在のタイの首都はバンコクであるが、当時の王朝は、バンコクからチャオプラヤ川を遡った北方80kmほどのアユタヤに都をおいていた。アユタヤには日本人が集住する日本町が存在しており、貿易で成功した長政は、その日本町を取り仕切る役割を与えられたという。さらにはチャオプラヤ川の水上警備もシャム側から委ねられており、元和7年(1621)、オランダと争うスペインとポルトガルが連合してアユタヤに侵入してきたときには、日本人を率いた長政がスペイン艦隊を奇襲し、撤退に追い込んだ。当時、アユタヤには関ヶ原の戦いや大坂の陣に敗れた武士も、傭兵として多く流れ込んできていたのである。
この一件以来、長政はエーカトットサロート王の跡を継いだ子のソンタム王に重用されるようになったらしい。そして、ついにはシャムの朝廷における最高位にあたる「オークヤー」の階級を与えている。これは、シャムにおいて大臣の地位についたに等しい。事実、長政は、シャムから日本に書翰を遣わしているが、その宛先は幕府の老中であった。当時は、地位の対等な者同士が書状を交換するというのが共通の常識であったから、長政の地位は、日本であれば老中と同等であったことになる。
それだけ出世した長政だが、それはあくまでソンタム王の信頼によるものであった。そのため、ソンタム王が寛永5年(1628)に亡くなると、その地位は不安定になってしまったのである。というのも、当時のシャムでは国王の後継者争いがおきていて、ソンタム王の王子チェーターティラート親王とソンタム王の弟シーシン親王を奉じる一派が勢力を競っていた。ソンタム王が亡くなったとき、長政は、チェーターティラート親王を奉じるソンタム王の従兄弟プラーサートトーンの依頼をうけ、日本人町の傭兵600人を率いて王宮を警護し、それによってチェーターティラート親王が国王として即位したのである。